意識がある時間が人生

 みなさんは人間の対極に自然があると考えていませんか。実は、自然と対立しているのは人間ではなくて意識なのです。意識というのは人間が頭で考えるということです。我々自身が意識と体という二つの面を持っていまして、だから世界も二つに分かれています。それが一方で都会であり、一方が田舎すなわち自然なんです。我々の中の自然というのは体であり、都会というのは心であり、個人でいえば心と体が対立しているわけです。考えて、すべてをきちんと計算して生きている都会の人が、一番知らないことは何かというと自分の告別式です。将来の予定をきちんと手帳にお書きになっているでしょうが、その手帳にはあなたの告別式は書かれていません。私は講演などを頼まれた場合「生きていたら伺います」と必ず言います。その時まで生きているという保証はないわけですから。意識の世界ではそれが保証されたものと考えてしまいますが、死ぬのは体の都合で、頭の都合ではないんです。我々は頭で考えられることと、考えられないこと、その二つを持っているわけです。都会に暮らしているということは、頭の世界に住んでいるということです。ですから夜も明るいんです、都会は。なぜかというと起きている時間しか意識はないからです。明るい時間、すなわち意識がある時間こそが人生だと思っているのです。

体を使うことの大切さ

 我々は自然と意識の両方からできています。世界が都市と自然からできているということと完全に対応しています。ですから環境問題とは我々の問題でもあります。頭と体をどう調整するか、つまり、都会の中で体をどういうふうに動かすかという問題です。ここに、スイミングクラブの存在意義もあります。都会の人はあらかじめわかる説明しか受け付けません。ああすればこうなると考えるのが利口な人間だと思っています。子どもをこんなふうに育てたら、こんなふうな大人になるに違いないと考えています。しかし、いかに一生懸命育ててもろくでもない人間になることはあります。なぜかというと、子どもは自然だからです。子どもというのは親が頭で考えて設計して作ったものではありません。うちの子どもだからこうなるはずだと思って育ててもそうはいかないのです。体は自然、子どもも自然、我々自身が自然と人工の両方に引き裂かれているのであって、これが地球規模でいう南北問題に対応しているのです。
 体は都会ではまともに扱われていません。体をどう考えるかということは一番大事なことです。ところが頭で考えても答は出ません。だから体を使うんです。体を使うことはものすごく大事なことだと思っています。
 
万物は流転する

 日本は戦後ひたすら頭中心の世界になってきました。目が覚めた時、みなさんは「私は私」と思います。これは西洋近代的自我であり、「生まれてから死ぬまで変わらない私」です。これにどのくらい根拠があるでしょうか。
 人間の体は1年で9割以上物質が入れ替わっています。「変わらない私」とは意識が言っていることです。そして「私は私で変わらない」と考えたところから情報化社会が始まったのです。情報というのは変わらないものです。西洋近代的自我が成り立つ世界、すなわち都会では人間が情報になったのです。人々は自分を情報とみなすようになったのです。
 しかし人間は情報ではありません。みなさん方そのものは毎日ひたすら変わっているのです。万物は流転します。すべてのものは移り変わるのです。


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