●プロフィール● 実業界での名声はもとより、'70年35歳の時にエベレスト日本人初登頂(故植村直己氏と同隊・日本山岳会)を果たし、'85年に日中友好合同登山隊・隊長としてナムナニ峰初登頂し登山家としても有名。著書に「熱きこころ 登山と企業から学んだ私の人生哲学」(ぱるす出版)「ヒマラヤ・サイバル登頂」(サンケイ新聞)等がある。

自ら行動して世界の最高峰に挑む
 私は大学の頃、相当イライラしたことがありました。「なぜ日本人はもう少し積極的に中央アジア、ヒマラヤ、あるいは南極に出ていかないのか、何をしているのだ」と。日本が戦後の復興から立ち上がって、まだ経済的にも安定していなくて、食べる物、着る物がやっと整うかどうかというような時ですから、なかなかそこまで考え方が及ばなかったのでしょう。
 社団法人日本山岳会が1953年からようやくマナスルという8千メートルの山に行くことになり、1956年で初めて登頂することができました。その時に私はどうしても隊員になりたかったのですが、まだ大学4年生だったために入れてもらえませんでした。「それだったら自分で隊を組織してヒマラヤに行こう」と思い立ち、1960年に西ネパール最高峰アピ初登頂に成功しました。日本のヒマラヤ登山の中でマナスルに続き2番目の登頂になりました。
 「世界の最高峰に日本人も他国に負けないように登ろう」と私が言い出して、日本山岳会の人たちを動かし、1970年に植村直己氏らと共に日本人で初めて世界最高峰のエベレストに登頂し、成功しました。

外部からの刺激で活性化する
 初登頂を成功させた後、いろいろな講演をしましたが、その時に決まった質問が出るのです。「多額のお金を使って、命までかけてなんで無駄なこと、意味のないことをするのだ」と。
 私たちはエベレストに行く時に、42の特許などを出願し、いろいろなものを開発しました。例えば普通は15kgもあるテントをいかにして細い糸、丈夫な糸で織って軽くするかということです。「日本人が世界の最高峰に登るのなら協力しようじゃないか」と、自分たちの心の底にあるロマンを持った経営者の方々は協力してくれました。おかげで7kgのテントが出来上がりました。そして私たちが開発した商品が何十年か経って世の中に出てきました。
 人はお金のためだけに行動するのではありません。心には熱い心、感動する心、喜び、好奇心などがあります。その心を表現するフィールドとして、勤めている企業であるとか、経営することなどがあります。そこへ自分の熱い心をぶつけていく。その中には難しい人間関係や嫌なことがたくさんあります。しかし、基本になることは、自分がどういう心を持っているかということが大変重要だろうと思います。その心がいろいろなものを通して現在の文明を押し広げ、今日の経済社会が広がっているのです。今私たちの中にきちんとした思想がなければ、未来に何か特別なことが起こる可能性は100%ないのです。
 では、どうしたら自分のスタンスを持つことができるのでしょうか。
 例えば、フランス語、英語、ドイツ語で水泳の本を読みました。プールに飛び込んだら泳げるかといったら泳げませんね。どうしてもコーチについて練習をして体験を積んで体に刻ざみ、そしていろいろなことを教わりながら実行して初めて水泳というものができる。人間は体験学というものを通さなくてはいけないのです。体験を通して刺激として体に刻まない限り、本物ではないのです。ですから、書物だとか、人の話によって認識として知って覚えただけというのは、仮想現実で何の役にも立たないということです。
 私は登山を通して、異質の環境の中で刺激を受けて、人間というのはクリエイトされるのだと分かりました。人は行動し、体験しながら新しい世界観の中に自ら入って行き、そしてそれを自分の理念や信条として創造するということが大変重要なのです。


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